毎年、11月になると思い出す詩がある。早世した詩人、八木重吉(1898~1927)の詩だ。
「素朴な琴」
この明(あか)るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐えかね
琴はしずかに鳴りいだすだろう (『貧しき信徒』所収)
手元の『教科書でおぼえた名詩』(文藝春秋)によると、中学2年の国語で習うとある。今はどうか知らないが、この本が出た20年前当時は、一部の国語教科書がこの詩を載せていたようだ。
この詩に出合ったのがいつだったか、もう忘れてしまった。高校生だったか、大学生だったか。八木重吉を知ったのがその頃だったから、たぶん20歳前後だろう。詩集に収められた作品には、これが詩なんだろうかと思うような、モノローグともつぶやきともつかぬ小品もたくさんある。しかし中に、はっとさせられる作品、心を揺り動かされる詩がいくつも眠っている。
時折、ふと思い出して詩集を手に取る。ぱらぱらとページをめくりながら、心に響く詩がないかと探してみる。何も見つからないまま本を閉じてしまうことも多いが、見つかることもある。ああ、こんな詩があったのか、と。
「皎々とのぼってゆきたい」
それが、ことによくすみわたった日であるならば
そして君のこころが、あまりにもつよく
説きがたく 消しがたく かなしさにうずく日なら
君は この阪道をいつまでものぼりつめて
あの丘よりも もっともっとたかく
皎々(こうこう)と のぼってゆきたいとは おもわないか (『秋の瞳』所収)
「皎々とのぼる」の主語は「君」である。「月が皎々と照る」という表現はおなじみだが、人が坂道を皎々と上っていく、という言い方はまずしない。月ではなく人間を主語とし、「皎々とのぼってゆきたいとはおもわないか」と問いかける表現に意表を衝かれた。そして鮮やかだと感じた。
詩の表現の上では、問いかけられているのは「君」、すなわちこの私だ。皎々と照る月が夜空を上っていくように、私も明るく照り輝きながら、もっともっと高く、どこまでも上っていきたいと思わせてくれる。
『日本の詩歌23』(中公文庫)で江藤淳が八木重吉の詩を解説している。江藤は詩人の「かなしさ」をキリスト教信仰と関連づけている。「信仰を求めて、自分の不甲斐なさを激しく嘆く日、そのような日には、坂道をいつまでも登りつめてゆきたいという」「崇高なるものを希求する心である」。
山があるから登るとか、坂があるから登るというのではない。詩人は「崇高なるもの」を求めて登ろうとしている。読み手は八木重吉に誘われて、自分も彼と一緒にそれを求めていこうかという気にさせられるから不思議だ。