吊りしのぶ

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ノーベル賞の真鍋氏「私はやりたいことをやる」VS日本学術会議「科学者に軍事研究はやらせない」

6日夜の報道ステーションが、ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏のインタビュー発言を伝えていた。記者から「なぜ日本からアメリカに国籍を変えたのか?」と聞かれ、「興味深い質問だ」と前置きして、「日本ではお互いに人の目を気にしながら生きていて、それが協調的な社会を作り出しているが、私は人の目を気にしない。アメリカでは上司は好きなようにやらせてくれた。私は自分がやりたいことをやる」という意味の発言だった。

我々はこの発言をどう受け止めたらよいのだろうか。

人の目を気にしていたら自由な研究はできないと真鍋氏は言う。それは、逆に言えば、学術界には異端的な研究や常識外れの研究を快く思わない同僚や上司がいるということではないか。

「こんな研究をやりたい」と言っても、嫌な顔をされたり、そもそもやらせてもらえない。真鍋さん自身、そんな体験をしたからこそ、日本を抜け出してアメリカに拠点を移したのだろう。

ここで日本学術会議のことを考えてみる。同会議は2017年に「軍事的安全保障研究に関する声明」を発表して、1967年の「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を継承すると宣言した。

しかし、これには軍事的安全保障研究が必要だとする識者から批判の声が出ている。

読売新聞や産経新聞保守系誌も軒並み批判的だ。この声明を発表した学者たちは、真鍋氏の発言をどう聞いたのだろうか。

軍事と関係する科学研究は、日本や同盟国の防衛力を高めるためには当然必要だ。それは「戦争するための研究」ではなく「戦争を抑止するための研究」なのだが、学術会議の人たちは、同じ戦争にも侵略戦争自衛戦争自衛権の行使)もしくは制裁戦争(制裁のための武力行使)の2種があるという単純な事実すら認識できないらしい。

卑近な例を出せば、包丁は人殺しの道具にもなるが、調理の道具にもなる。「包丁は人殺しに使われるかもしれないから、良い包丁を作るための研究はするな」と言う人がいたら、その人は頭がおかしいと言われても仕方がない。しかし、学術会議の声明は、これと何ら変わるところがない。

「科学者の研究は、科学者の意図を離れて軍事目的に転用されるかもしれないから、その可能性のある研究は慎重に審査すべき(軍事目的に転用されるなら認めない)」と言うのだが、軍事=悪と決めつけているところが、何とも愚かしい。

国連憲章は戦争を違法化したが、自衛権の行使と侵略国に対する制裁のための武力行使は容認している。慣習国際法もまた、一定の条件下での武力行使を許容している。いずれも「軍事」である。軍事=悪という図式は成り立たない。

こうして日本では、大御所科学者たちを含む権威ある公的学術団体が「(科学者に)やりたいことをやらせない」ようにしているのである。真鍋氏の「私はやりたいことをやるが、日本ではそれができない」という発言は、日本学術会議のメンバーたちに突き付けられた批判でもあると思う。