「世界日報」が9月12日の拙ブログ「『世界日報』が紀藤正樹氏と鈴木エイト氏を厳しく批判~『詭弁を弄する人物たちの人権感覚に啞然』と」で紹介した記事の続編をアップし、紀藤正樹弁護士への批判を深掘りしている。
この記事に対する印象は、旧統一教会信者約4300人に行われた拉致監禁による強制改宗の実態を知っているかどうかで変わるかもしれない。
知っている者は、間違いなく「世界日報」の方に軍配を上げるだろう。
知らない者は、「世界日報」が主張していることがピンとこないかもしれない。
強制改宗は、
暴力的な実力行使によって信者を連れ去り、ホテルなどの一室に監禁し、「脱会するまではここから出さない」と宣言した上で、キリスト教の牧師、脱会カウンセラー、脱会請負人などが入れ替わり立ち替わり「説得」と称する棄教の強要を行うこと。
と大ざっぱに定義できる。
このような行為を、紀藤正樹弁護士は「(家族による)自力救済的なもの」と呼び、肯定してきたように見える。
8月12日の「ミヤネ屋」を自分は見ていないので、紀藤氏がどの程度肯定したのかはわからない。
だが、「自力救済的」とか12日の拙ブログで紹介した「説得」という表現から考えて、そこに「肯定的」なニュアンスがあることは確かだろう。
そして紀藤弁護士は、拉致監禁をなくすには、「カルト問題に対する法的・社会的規制を強める」ことが必要だと言ったという。
また、欧米でも拉致監禁はあったが、カルト問題に対する法的・社会的規制を強めた結果、なくなったとも主張したそうだ。
これに対し「世界日報」は、拉致監禁を違法認定した東京高裁判決(2015年9月最高裁で確定)を引き、それが紀藤弁護士の考え方とは根本的に異なることを強調する。
「統一教会の諸活動が国の他の法令に違反し、許容されないものである場合は、その行為の当否等について、別途、民事、刑事の裁判手段で個別的に判断されるべきものであって、その信仰の自由の問題とは分けて考えられるべきものである」
どんな信仰を持つかは不可侵の権利だから、たとえ教団に社会的問題があったとしてもそのことによって個人の権利が奪われてはならない。強制改宗はそのこと自体の違法性が問われなければならない
――この基本原則を明確にしたのが判決の最大の意義だった。
だが、紀藤氏は法律のプロでありながらそこにはまったく触れない。拉致監禁による強制改宗はたとえ親族が実行したとしても人権侵害で「絶対やってはいけない」とも言わない。
どうみても、紀藤弁護士の考え方はおかしい。なぜ「絶対やってはいけない」と言わないのか?
紀藤弁護士の主張は、統一教会を「カルト宗教」と決めつけ、「カルト宗教」に特有の「カルト問題」なるものを作り出し、これに対して法的・社会的規制を強めよ、というものだが、司法は問題行為があれば「信仰の自由の問題とは分けて」、一つ一つを「個別的に判断」すべきと言っている。
「信仰の自由の問題とは分けて」とは、「反社会的なカルト宗教」といった考え方を持ち込むな、という意味だろう。
どちらが「信教の自由」や基本的人権を尊重した考え方であるかは、このように対比してみると一目瞭然ではなかろうか。
「世界日報」はまた、もう1つ紀藤弁護士の主張の誤りを指摘した。
欧米で拉致監禁による強制改宗がなくなったのは、カルト問題に対する法的・社会的規制を強めた結果などではないという。
真相は、検察・警察・裁判所がこうした行為に厳しく臨んだからだ、というのが「世界日報」の指摘だ。
日本で約4300人もの拉致監禁が横行したのは、反統一教会勢力の「これは拉致監禁ではない。家族間の話し合いだ」という主張の前に、警察や司法が委縮してしまったからである。
赤の他人を拉致監禁すれば、普通は間違いなく刑事事件になる。
ところが「家族間の話し合い」と言えば、警察も司法も見て見ぬ振りをする。
その結果が4300人もの被害者を生み、挙げ句の果てに12年以上も監禁・軟禁されるという信じがたいケースをもたらしたのだ。
12年以上も改宗(棄教)を強要され続けた後藤徹氏は「被害者の会」を立ち上げている。
日本で長年、警察や司法の介入がなされなかったことから、統一教会と自民党との関係についてもある結論を導ける。
つまり、統一教会には、警察や検察を動かすだけの力はなく、両者は「深い関係」にはなかったということだ。
そもそも家族間であっても拉致監禁による強制改宗が許されないのは自明のこと。後藤氏の最高裁判決が出なくても、常識で考えれば、そんなことは絶対に許されない。
もし統一教会と自民党が世間で言われているように「深い関係」にあったら、委縮する警察や検察を動かして、あっという間にこの問題は解決していただろう。
しかし、現実には12年以上も監禁・軟禁されたケースでさえ、刑事事件としては立件されず、民事訴訟で最高裁まで争ってやっと勝訴に至ったのだ。