「世界日報」9月20日に載ったチベット出身の政治学者、ペマ・ギャルポ氏(拓殖大学国際日本文化研究所客員教授)の寄稿を読んで深く共感した。
ペマ・ギャルポ氏は日本に帰化しているからもう外国人ではないが、その文章には「日本は一体どうなってしまったんだ」と嘆く駐日ジョージア大使と同じ眼差しが感じられる。
しかし、ギャルポ氏の嘆きはもっと深いようだ。
「国葬」反対煽るメディア 日本のイメージ悪化を危惧
2022年後半、世界史に残る偉人が次々とこの世を去った。
第一に7月8日、世界が激震した。安倍晋三元首相が世界一安全なはずの日本でテロリストによって暗殺されたのである。
岸田政権は、国内外の反響と情勢を包括的、かつ敏感に受け止め、日本国の名誉と国益をも吟味の上、安倍元首相の「国葬」を決めた。
しかし、これに対し一部が異論を唱え、抗議し始めた。この行為にいまさら驚きもしないし、ガッカリもしない。自由な国、民主主義の国であるため、岸田政権の英断に賛成する権利が私にあるように、当然彼らにも反対する権利がある。
驚きと絶望を感じたのは、日本のメディアが中立・公正・公平の精神を離脱して、反対勢力を煽るような報道に徹したことである。
第4権力の乱用に近い
国葬をめぐるメディアの態度は、情報化時代における第4の権力としての自覚を失っただけでなく、ペンとマイクによる権力の乱用に近いと言いたい。
世論調査なるものの公正さを100%信じているわけではないが、仮にそれが正しいとしてもメディアがあれだけ煽っても五十何%しか“洗脳”できていないということは、まだまだ良心のある国民が大勢いるということである。
近年、2度の大震災に直面して、日本人の礼儀正しさ、思いやり、公共心の高さなどを世界中が称賛した。また、国内外のスポーツ観覧場などでゴミを拾って帰る日本人を見た外国人たちが、その品位の高さに感銘を受けている。その結果、日本のイメージは極めて良好なレベルに達した。
だが、今回の報道は世界各国の要人たちが多忙の折、重要な公務の時間を割いて弔問に駆け付け、偉大な日本人指導者に敬意を表し、日本と日本国民に礼を尽くしてくださることを忘れ、約2億5000万円という出費ばかりが強調されている。
だが、参列団が航空運賃・ホテル代・その他滞在費を惜しまずに参列してくださる事実を忘れてよいのだろうか?
このたびの報道過熱によって、日本のイメージが悪化し、金に変えられないものが失われているのではないか。
本当にその通りだと思う。いつから日本人はこんなさもしい人間に落ちぶれてしまったのか。
「国葬の費用が高い」「こんなものに貴重な税金を使われたくない」と言って騒いでいる連中は、役所の係を相手に「おまえら公僕のくせに無駄遣いばかりしやがって。誰のカネで食ってると思ってるんだ!」とクダを巻いている住民と大差ない。
国葬をめぐるメディアの態度は、情報化時代における第4の権力としての自覚を失っただけでなく、ペンとマイクによる権力の乱用に近いと言いたい。
というペマ・ギャルポ氏の指摘は、とても重要だ。
マスコミやメディアは第4権力であり、その権力は容易に乱用される。
これこそ自分が細々とこのブログを続けてきた理由だ。マスコミ報道の誤り、プロパガンダ、一方的で偏ったペンの暴力。そうしたものを、きちんと検証し正す力は自分にはないが、せめておかしいと思ったことをおかしいと言いたい。
本当はマスコミやメディアの偏向とペンの暴力を日々監視し、一つ一つ検証し訂正していくような組織が、この社会の中で大きく成長し、力を持っていかなければいけない。
現状、そうなっていないのが残念だ。
アメリカなら、報道は横並びでなく、右から左まで多様な主張を繰り広げているから、視聴者や読者はそれらを常に比較し、多様な見方を身につけられる。
ところが、日本はほとんど横並びと言っていい。
旧統一教会や国葬をめぐる問題も、マスコミの中では「同教団を叩く」「国葬はおかしい」というスタンスしか存在しないかのようだ。
批判に対して異論を唱えると、「オマエは統一教会を擁護するのか!」とか「それは統一教会を利する発言だ」とか、およそ多様性尊重とかけ離れた非難が飛んでくる。
「霊感商法で助けられた人もいる」と発言して袋だたきに遭い、たった1日で謝罪に追い込まれた高橋真麻氏の例は、その典型だろう。
今また爆笑問題の太田光氏がバッシングされているらしい。
こういう報道をやるメディアやそれを支持する人は、「多様性尊重」という言葉を金輪際使う資格がない。
メディアは、金子みすずの詩を引き、好んで「みんな違ってみんないい」と言っていた。ところが、旧統一教会報道や国葬報道は例外で、「みんな同じでなければダメ」なようだ。
ペマ・ギャルポ氏同様、「絶望」を感じている人は多いのではないだろうか。