「マインドコントロール理論」は使い物になる有効な理論なのか? この点は既に、いわゆる「青春を返せ訴訟」やオウム真理教裁判で決着がついている。
法廷は「マインドコントロール理論」を使い物にならないとして却下したのである。
その理論が今、旧統一教会を解散に追い込むツールとして、また同教団による被害者救済の核となる概念として一躍脚光を浴び、まるで普遍的な真理であるかのようにテレビでも新聞でも報道されている。
■オウム裁判で「マインドコントロール」が司法採用されていたら、ほとんど全員無罪になっただろう
オウム真理教裁判が最終決着して10年以上。日本のマスコミのあまりの健忘症ぶりに開いた口が塞がらない思いがする。
もし「マインドコントロール」なる俗語、あるいは擬似科学が、法廷で採用されていたら、オウム裁判の結末は全く違ったものになっただろう。
192人が起訴された一連のオウム裁判でマインドコントロールが認められていたのなら、ほとんどが無罪で終わったはずだ。その一方で、最後まで教祖への帰依を貫いて死刑になった信者もいる。
東洋経済netに寄稿した青沼陽一郎氏によれば、「マインドコントロールされていた」ということは、そこに自分の意志はなかった、教祖に操られていた、というのと同じである。
したがって、法廷がこの理論を採用していたら、「自分は教祖によってマインドコントロールされていた。だから罪はない」と主張した被告は、全員無罪になったはずだ、と青沼氏は言う。
中には「そんなことはない。自分は自らの意志で判断し、行動したのだ」と考えた信者もいた。そういう信者はマインドコントロールなど主張しなかったから、「最後まで教祖への帰依を貫いて死刑になった」。
つまり、法廷戦術として「マインドコントロール論」にすがった者が得をし、正直者が馬鹿を見る結果になっただろう、というのだ。
そんなことは許されないと誰でも思うのではないか。
しかし、「マインドコントロール理論」が法廷で採用されていれば、そんなトンデモナイ判決が出て世間を驚愕させたことだろう。
■「マインドコントロール概念」の危険性を一切語らない立民、維新の会は健忘症か?
もちろん法廷は地裁、高裁、最高裁の全てで「マインドコントロール論」を採用しなかった。司法に良識は生きていた。
だからこそ、サリンによる無差別テロを起こした容疑者たちは、正当に裁かれ、刑に服すことになったのだ。
その司法が却下した、荒唐無稽な「マインドコントロール論」が今、大手を振ってまかり通っている。
立憲民主党も維新の会も、これほど危険な理論なのに国民に何の説明もせず、ほんの10数年前にあったオウム裁判のことなどきれいさっぱり忘れたかのようだ。
それどころか、「1日も早く法律にしたい。野党案を飲まないのは、与党にやる気がない証拠だ」などと、ほとんど脅迫に近い言辞を弄して与党に圧力をかけている。
野党のこの高飛車な姿勢を大半のマスコミが応援しているのも信じがたい。自分が「正気を失っている」と書くのはそのためだ。まるで集団発狂しているみたいだ。
■「青春を返せ裁判」でも「マインドコントロール理論」は却下された
宗教ジャーナリストで、米本和広氏と同じく、旧統一教会信者に対する拉致監禁問題の重大性(犯罪性)を告発してきた室生忠氏が、『大学の宗教迫害』(日新報道)の中で次のような指摘をしている。
日本の司法における「マインド・コントロール理論」定義の司法的採用の是非をめぐる争いは、統一教会を被告とする一連の“青春を返せ訴訟”において、1998年3月、名古屋地裁が「いわゆるマインドコントロール」は、それ自体多義的であるほか、一定の行為の積み重ねにより一定の思想を植え付けることをいうと捉えたとしても、原告らが主張するような強い効果は認められない」と判示して、既に明確に決着がついています。
さらに2011年12月21日にはオウム真理教事件の刑事裁判が終結して、「マインド・コントロール理論」の司法的不採用が最高裁によって追認されました。
松本智津夫死刑囚(元教祖)から「マインド・コントロール」を施されたとして、心神喪失や心神耗弱を理由に無罪や死刑回避を求めていた、上告全被告の主張が退けられて死刑が確定したことは周知の通りです。
■「マインドコントロール」は道具概念の意義を持たず、説明概念にとどまる、とした判例
次に、自分が調べた判例を挙げておこう。「霊感商法」などに関する2000年の広島高裁判決(平成10(ネ)158号)でも、判決は「マインドコントロール」概念の有効性を否定した。
なお、本件においては、控訴人(注・原告)がマインドコントロールを伴う違法行為を主張していることから、右概念の定義、内容等をめぐって争われているけれども、少なくとも、本件事案において、不法行為が成立するかどうかの認定判断をするにつき、右概念は道具概念としての意義をもつものとは解されない(前示のように、当事者が主観的、個別的には自由な意思で判断しているように見えても、客観的、全体的に吟味すると、外部からの意図的操作により意思決定していると評価される心理状態をもって「マインドコントロール」された状態と呼ぶのであれば、右概念は説明概念にとどまる)。
この事件は、被控訴人である旧統一教会の使用者責任を問うた裁判だが、判決は献金、セミナー参加をして172万5000円を出費した控訴人(原告)が勝訴した。
判決内容は教団側に厳しいもので、
ことさらに虚言を弄して、正体を偽って勧誘した後、さらに偽占い師を仕立てて演出して欺罔(ぎもう)し、徒(いたずら)に害悪を告知して、控訴人の不安を煽り、困惑させるなどして、控訴人の自由意思を制約し、執拗に迫って、控訴人の財産に比較して不当に高額な財貨を献金させ、その延長として、さらに宗教選択の自由を奪って入信させ、控訴人の生活を侵し、自由に生きるべき時間を奪ったものといわざるを得ない。
と書かれている。(『判例時報』2001年10月1日号)
原告は自由意思を制約され、宗教選択の自由も奪われ、自由に生きるべき時間を奪われたけれども、だからといって「マインドコントロール」されていたわけではない、というのが広島高裁の結論である。
「自由意思を制約され」「宗教選択の自由も奪われ」と聞いたら、今の日本のマスコミ報道や世論、立民・維新の議員、弁護士、識者は、ほとんど「これはマインドコントロールだ」と言うだろう。
しかし、裁判所はそんな認定はしなかった。
「マインドコントロール」は現象を説明する有効な「道具=ツール」としては使えない。あくまで「説明概念」にとどまる、すなわち現象を説明する1つの仮説でしかない、と言っているのだ。
これが厳密な司法判断というものだ。
■違法な拉致監禁を正当化し、自発的信者も被害者扱いする「マインドコントロール理論」
にもかかわらず、7月以来の旧統一教会問題では、実に多くの人が、国会議員も識者も弁護士もマスコミ人もメディア関係者も世論も、
「統一教会の信者や被害者は自由意志を奪われ、自己決定する能力も失い、マインドコントロールされている。よって信者は手荒なことをしてでも『脱会説得』『保護説得』(実態は拉致監禁による強制棄教なのに!)するべきだし、被害者には、本人の代わりに家族が請求してでも、1日も早く払ったお金、献金したお金を返すべき」
という意味の主張をしてきた。
■拉致監禁は統一教会のPRではない。関与した当事者たちも認めている
ちなみに、マスコミや世論の一部、霊感対策弁護士たちは、「拉致監禁は統一教会の主張」と言っているが、とんでもない。
脱出に成功した信者たちの証言のほか、脱会した元信者たちの証言もあり、さらに12年以上監禁され最高裁まで争って勝訴した後藤徹裁判でしっかり認定された事実だ。
霊感対策弁護士の1人だった伊藤芳朗弁護士の証言(陳述書)もある。
キリスト教神戸真教会の高澤守牧師も、法廷で、自らが関与した拉致監禁による強制改宗を事実上、認めている。(米本和広氏によると、高澤牧師は、ある夫婦の「拉致監禁による脱会強要」に携わり、2人が警察官に救出された後、告訴され、警察が捜査中に自殺した。2015年5月のこと)
立憲民主党のヒアリングに呼ばれた宮村峻氏も、脱出した信者の体験記の中で、著者に向かって監禁を認める発言をしている。
■大衆の無知に乗じて「マインドコントロール」を連呼する弁護士たち
さて、一般大衆はともかく、霊感対策弁護士たちは当然、「マインドコントロール」が法廷で不採用になったことを知っているはずだ。
知っていながら、そのことに一切触れることなく「マインドコントロール」を連呼している点で極めて悪質だ。
紀藤正樹、山口広、渡辺博、郷路征記らの各弁護士は、青沼陽一郎氏が言うような「マインドコントロール」概念の危険性を、テレビやマスコミで自ら語ったことがあるだろうか? 寡聞にしてそんな例を自分は知らない。
司法を介在させない、あるいは相手方の言い分に耳を傾けない一方的な断罪は、まさに魔女狩り、吊し上げ、リンチである。
これをおかしいと思わない人は、その人もまた正気を失っているのだ。