吊りしのぶ

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「マインドコントロール」で霊感商法対策弁連の代弁者と化した立民・維新。いい加減目を覚ませ

旧統一教会の被害救済法案に「マインドコントロール」を盛り込めと、いつまでも未練がましく執着する立憲民主党と日本維新の会。

自分たちが全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)の代弁者、いや単なる使い走り扱いされていることに気が付かないのだろうか。

全国弁連は「マインドコントロール」を定義して司法の世界を激変させようとしている。

再び引用するが、彼らは青沼陽一郎氏の警告をどう考えるのか。「聞く力」は岸田首相だけのことで、自分たちは関係ないと思っているとしたら大間違いだ。

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マインドコントロール論を認めれば、オウム真理教事件のような凶悪な事件が起きても、実行犯は「教祖にマインドコントロールされていた」と主張すれば、無罪になってしまう。

自由意志が拘束され、自己判断できる状態になかったとみなされるからだ。こんなことは断じて許されない。

高額献金の問題などでマインドコントロール論を声高に主張する全国弁連は、「被害者」の肩を持ち、「被害者」の味方のように装っているが、この理論が持つ破壊的影響力を当然、分かっている。

罪を犯した人間を弁護して無罪を勝ち取ろうとするとき、この理論は強力な武器になるから、それを狙っているのだろう。

旧統一教会の問題では、一見不合理に見える高額献金をした人が、本人の意志にかかわりなく、マインドコントロールされていたと決めつけられる恐れがある。自己決定権の剝奪である。

献金は本人の自由な意志によってなされ、基本的人権の「信教の自由」に基づく行為である。その自由意志と自己決定権を疑似科学のマインドコントロール論で否定するなどあってはならない。

この場合、献金にノルマがあるか否かは関係ない。過酷なノルマがあっても本人が決断して献金したのであれば、それは本人の自己決定であり、本人が責任を負うべき行為である。

もしそれが違うというのであれば、多くの企業の営業現場で当たり前のように行われている「営業ノルマ」は一体どうなってしまうのだろう。

ノルマをこなすため必死に働く営業マンが、どうしてもノルマが達成できないからと強引な押し売りをやって逮捕されたとしよう。

営業マンはこう主張するかもしれない。

「私は会社からマインドコントロールされていたので、厳しいノルマに何の疑いも持ちませんでいた。自由意志も自己決定権も麻痺させられ、単なる会社の歯車として動かされていただけなので私に罪はありません。悪いのは会社です」

マインドコントロール理論を使うと、こんなバカバカしい結論も導けるようになる。

ここでは、厳しいノルマを課されても、社会のルールを守ってその範囲で高成績をあげている者の存在が無視されている。彼らは「そんなバカな」と呆れるに違いない。

社会のルールに違反した自分の責任を棚上げし、マインドコントロール理論を自己正当化のために使った営業マンは、犯罪者から一転して「会社にマインドコントロールされた被害者」になる。

こんなマジックのような逆転劇を可能にするのがマインドコントロール理論である。

まさに百害あって一利なし。司法の世界に、こんな異常な疑似科学を持ち込んではならない。

献金問題は、「借金をしてでも献金しろ」「夫婦の共同財産でも配偶者に相談せずに献金しろ」「自己破産してもいいから献金しろ」等々、このような理不尽な献金要求にペナルティーを科せば、それで十分だ。

本来なら宗教団体側の自浄作用に任せるべきだが、自浄作用が不十分だった以上、何らかの規制はやむを得ないだろう。

ただし、家族が「親(配偶者)はだまされている。全額返金すべき」と一方的に主張するのはおかしい。献金した当人の意志はどうだったのかというその点の確認なしに「だまされている」と決めつけるのは越権行為であり、財産権の侵害である。

教団側が献金を受け取るに際し、念書を書かせたり動画を撮影するケースが報じられているが、どこが問題なのかサッパリ分からない。

後になって「あの時の献金は自発的でなかった。返してほしい」と言われたのでは、教団側も困る。自発的な献金だという証拠書類や映像を残しておくことは、双方にとってメリットがある。

報道によると、この念書や映像の証拠となって、家族が起こした裁判は敗訴したという。裁判所が本人の意志を尊重した結果だ。判決が確定しているのに、テレビでは弁護士らが「念書や映像を撮るなんて悪質だ」と平気で発言している。

おかしいではないか。それが悪質な行為なら、なぜ裁判で負けたのだ。もし本当に悪質なら、法廷でその悪質性を訴えれば勝てたはずだ。

世の中には「子孫に美田を残さず」を信条としている人もいる。この信条に沿って自分の主な財産を処分した場合、相続人は「得られるべき財産を失った被害者」となるのだろうか。なるはずないではないか。

つい最近も、マイクロソフトの共同創業者が、所有する絵画を全てオークションにかけて売り払い、そこで得た莫大な売上金の全てを慈善団体に寄付するとニュースで報じていた。

彼に子どもがいるかどうかは別として、一定数の相続人はいるだろう。その人たちは地団駄踏んで悔しがったかもしれない。しかし、「慈善団体に寄付する」と当人が決めたのなら、その意志を否定することは誰にもできない。

これが慈善団体ではなく宗教団体だったとしても同じことだ。献金ノルマがあろうがなかろうが、決めるのは本人である。

本人がそう決めたことにより、得られるべき財産を相続できなかったからといって、その人たちを「被害者」に祭り上げるのは筋違いである。

とはいえ、繰り返しになるが、社会通念に反した要求をするケース(子どもの扶養を無視、配偶者の意向を無視、借金させる、自己破産に追い込む…)は規制されてしかるべきと思う。