この国はいつからこんなにも不寛容になったのだろう。杉田水脈・総務政務官が過去に「LGBTには生産性がない」と発言したことを蒸し返し、マスコミや一部世論が彼女を叩き続け、「辞めろ、辞めろ」の大合唱だ。
とうとう彼女は松本総務大臣の指示で「月刊誌で子どもをつくらない同性カップルは『生産性がない』と評したこと」(朝日新聞)などの発言を
個人的には、自らの信念で語ったことならば、撤回も謝罪もせず、政務官を辞任した方がよかったと思う。
しかし、岸田首相から「職責を全うしてほしい」と言われた以上、辞任は首相のメンツをつぶすことになる。指示されたとおり、撤回して謝罪するしかなかった。
■個人の信念なら撤回・謝罪せず、「閣内にある間は岸田内閣の考えに従う」と言えばよかった
ここで自分は、第3の身の処し方があったと思う。
「過去に月刊誌で述べたことは個人の信念であり、撤回も謝罪もしないが、岸田内閣の一員としては、LGBTに関する岸田内閣の考え方に従う」
こう言えばよかったのだ。
個人の信念が内閣の考え方と違うことはいくらでもある。その違いをいちいち問題にしていたら、内閣に入って政務三役になれる議員はいなくなってしまう。
河野太郎氏だって、一国会議員としては脱原発論者である。しかし、安倍首相が彼に声をかけると「脱原発」の持論を封印して閣僚になった。閣内にある間は、政府の方針に異を唱えなかった。今もそうだろう。
個人の信念と内閣の方針が違うときは、このように融通を利かせて対応すればよい。杉田水脈氏もそうすればよかった。
それができなかったのは、結局、支持率低下に悩む岸田首相が、杉田氏に「撤回と謝罪」を促したからだ。
ここにポピュリスト的な岸田内閣の性格がよく表れている。
■言論の多様性を否定するラサール石井氏は、まるで全体主義者のようだ
LGBT全体を指して「生産性がない」と言うのは、確かにどうかと思う。しかし、少なくともLとGに関しては事実ではないか。
上の朝日の記事も、「同性カップル『生産性がない』…」として、LとGに限定した見出しを付けている。
L、G、B、Tそれぞれ違うのだから一緒にするな、と抗議するならともかく、「差別発言だ、許しがたい、政務官やめろ」などと言うのはおかしい。
ここで「生産性がない」とは、勿論自分たちでは子供を産めないことをいう。「労働生産性」「労働生産力」という言葉もあるように、人間の営みを比喩的に経済用語で表現することは一般的に行われている。
「生産性がない」発言も、そうした文脈で捉えれば、目くじら立てるようなことではない。
ラサール石井氏が、杉田水脈氏を擁護した田母神俊雄氏を非難しているが、こういう物言いこそ全体主義的で、自由な言論を封殺し、言論の多様性を自ら否定する危険な発言だ。
昨今の旧統一教会問題といい、五輪直前の小山田圭吾事件といい、時期を古くさかのぼれば内村鑑三の不敬事件といい、日本はつくづく同調圧力の頑強な、不寛容な国だと思う。
その割に「多様性の尊重」が流行語のようになっている不思議な国でもある。
■日本では「暴力革命」の旗を下ろしていない共産党でさえ国会で活動できる。これこそが「多様性の尊重」だ
日本は言論の自由のある国だ。その自由のない北朝鮮や中国など社会主義、共産主義、全体主義の国とは根本的に国柄が異なる。
暴力革命の旗を下ろしていないとして、公安調査庁が監視を続けている団体でさえ、政党を作り、国会で自由に活動できるのが、日本という国である。
暴力革命とは、自由民主主義を暴力的に破壊して、社会主義国家、共産主義国家を作るということである。
そういう独自の「理想」をいまだに持ち続けている政党があり、その政党の構成員が国会に議席を得て活動し、それを国民が容認している。
これこそ「多様性尊重」の最たるもので、日本が言論の自由を最大限尊重していることの立派な証拠である。
実際に暴力革命をやろうと準備を始めたとか、国家転覆活動に着手した、ということでない限りは、日本共産党の議員に対して「議員をやめろ」「政党を解散せよ」などと言うことはできない。
にもかかわらず、杉田水脈氏に対しては、差別発言をした過去があるという理由で公職を辞任せよと言い、よってたかって非難する。
「多様性尊重」と言いながら、気にいらない発言をした人間は排除するというなら、それは不寛容であり、多様性を尊重したことにはならない。
むしろ多様性を破壊し、社会を一色に塗りつぶそうとする危険な言論と言わざるを得ない。
自分は杉田水脈議員を擁護した田母神氏の発言に同感するし、賛同するものだ。
■「差別だ」と叫べば差別になるわけではない。夫婦同姓制を「女性差別」とする主張は最高裁でも認められなかった!
ラサール石井氏は「弱者や少数派を虐げ排除するような言論」と言うが、「生産性がない」発言のどこにそのような性格があるというのか。少なくともこの発言に関する限りは一方的で勝手な決めつけだ。
「差別だ」と言う人も、「差別だ」と言って騒げば差別になると思っているのか。杉田水脈氏は誰かに訴えられて法廷で「差別発言をした」と判示されたのだろうか?
そんな事実は聞いたことがない。それどころか、杉田発言を問題視しないLGBT当事者も少なからずいるというではないか。
作家の千石杏香氏は、上のブログでこう書いている。
だからこそ、私は知らなかったのだ――「そんなにおかしいか『杉田論文』」(引用者注・『新潮145』掲載の特集)に二人のゲイが論文を載せていたことも、杉田水脈を擁護した性的少数者が少なくなかったことも、擁護とは言わないまでも理解を示した人がいたことも。
恐らく、大多数の当事者も私と同じではないか。私がリアルで出会うゲイたちも、誰一人この騒動に触れなかった。多くの当事者にとって、性的特質セクシュアリティと政治は無縁である。当時の私の反応は一般的な当事者のものだろう。
また、以下のブログでは、現在も性的少数者に対する憎悪犯罪が多いアメリカ、カナダ、フランス、イギリス、ロシアの例を示した上で、
はたして、日本は「遅れた国」なのだろうか?
むしろ、このようなことが起きている国に生まれなくて本当によかったと私などは思うのだが。
と述べている。
千石杏香氏は、日本はむしろ性的少数者に寛容な国だと示唆している。
「差別」というものは、客観的に定義するのが難しい。
選択的夫婦別姓制の導入を求める推進派や朝日新聞など多くのマスコミは、現行の同姓制度は「女性差別だ!」と訴えるが、裁判所はすでにいくつもの「合憲」判断を示している。「合憲」とは、女性差別ではないということだ。
このように「差別」については、人によって判断が分かれ、見解が分かれるのだから、対立する言論への批判は自由であるにせよ、自ずと節度が求められる。
一方的な決めつけと非難により公職からの辞任を要求するなど、あってはならない。
「多様性の尊重」とは、一人ひとりみんな違っていい、ということだと説明されてきた。だとしたら、異なる意見やその意見の持ち主に対する批判も、度を超してはならないだろう。
たとえ差別発言のように見えたとしてもだ。
千石杏香氏は、『新潮45』で杉田議員が実際にどんな主張をしたのか分析している。
これを読むと、自分には彼女が非難される理由はないと思える。