吊りしのぶ

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「カルト」とヘイトスピーチ(動画とテキスト)

マインドコントロールを論じた魚谷俊輔氏の動画が面白かったので、「カルト」について論じた動画(「カルト」は差別用語)も見てみた。魚谷氏は統一教会信者として語っているが、その内容が特に偏っているとは思えないので、以下にリンクし、テキスト化した。

「内容は同じでも、非信者が語った場合は正しいが、信者が語れば間違いだ」という党派的発想に自分は与しない。世の中にはこの種の党派主義者がわんさかいる。

理性よりも感情やイデオロギーを優先すべき、というわけだが、そういう人に限って「個の確立が大事」などと言うから笑える。

テレビのワイドショーで「拉致監禁」を口にした爆笑問題の太田光氏に、「統一教会を擁護するのか」などと非難を浴びせ、「拉致監禁は統一教会の宣伝だ」とか「保護説得というのが正しい」などとデマを飛ばした人やマスコミは、さしずめその部類に入るのだろう。

www.youtube.com

今回は「カルト」という言葉について考えてみたいと思います。

今、ワイドショーをはじめとするマスコミ報道やインターネット上では、「カルト」という言葉が頻繁に使われています。例えば、「カルト」と「まともな宗教」で扱いを変えるべきだとか、カルト規制法案が必要だとか、政治家はカルトとの関係を清算すべきだ、といったような論調です。

こうした議論の中で、「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)はカルトだ」という主張がなされております。

この動画では、この問題に対する私たちの立場を説明させていただきます。

私たちは「カルト」という言葉自体を否認します。それは差別用語であり、使うべきではありません。「放送禁止用語にすべきである」と言えるくらいに差別的で侮辱的な言葉です。

このような前提に立てば、家庭連合はカルトかどうか、という議論自体が無意味なものであるということになります。

今、ちまたで使われている「カルト」という言葉の具体的な意味内容は何でしょうか。それはひと言でいえば、私の嫌いな宗教、という意味なのです。

どんな宗教であろうと、ある人がその宗教を嫌っている場合には、「カルト」と呼んで侮辱することになります。

その宗教の中身はどうでもよいのです。とにかくその宗教が嫌いであればカルトと呼んで蔑(さげす)むことになります。要するに、カルトという言葉は嫌いな宗教を貶(おとし)めるためのレッテルとして使われている、ということなのです。

これは何も私の独断で言っているわけではありません。イタリアの有名な宗教社会学者であり弁護士でもあるマッシモ・イントロヴィニエ(Massimo Introvigne)氏は、最近発表したワシントン・タイムズの記事の中で以下のように述べています。

「新宗教を研究する主流の学者たちの大多数は、数十年も前に『カルト』というレッテル貼りを放棄しています。」

そして、

「『カルト』は意味内容のない言葉であり、どんな理由であれ、一部の圧力団体が嫌っている宗教的マイノリティーを中傷し、差別するための武器としてのみ使われる言葉である。」

と結論づけたのです。

これが今まさに、日本の家庭連合に対して起きていることなのです。

■マッシモ・イントロヴィニエ氏の最新著作(英語版)は『安倍晋三暗殺と統一教会』。早くも去年10月に刊行していたとは。

The Assassination of Shinzo Abe and the Unification Church

要するに「カルト」とは、その人の好き嫌いの感情と強く結び付いている言葉なので、ある宗教が「カルト」であるかどうかを判断する客観的な基準は存在しません。

「まともな宗教」と「カルト」を分けることなどできないのです。

例えば、もし国が「まともな宗教」と「カルト」という区別を設けて、その扱いを差別するようなことがあればどうなるでしょうか。それは国が異端審問を行うことにほかなりません。

日本国憲法は、信教の自由と政教分離の原則を謳っています。ここでいう政教分離とは、以下のような意味です。

  • 国は特定の宗教を優遇することができないと同時に、特定の宗教を迫害・弾圧することもできない。
  • 国は、宗教の教えの内容に関してはその是非を判断してはならず、すべての宗教に対して中立でなければならない。

国が関わることができるのは、教えの中身ではなく外的な行動だけです。

宗教法人であるかないかにかかわらず、また、個人が信仰を持っているか否かにかかわらず、違法行為を行えば法律で罰せられることになります。これが法の下の平等の意味なのです。

逆に、宗教や信仰を基準にして差別的な扱いをすれば、不平等になってしまうのです。

「カルト」と「まともな宗教」を分けるべきだ、という主張にはこのような危険が潜んでいるのです。

先ほど、カルトという言葉は、私の嫌いな宗教という意味だ、と申し上げました。したがって、これは一種のヘイトスピーチであると言えます。

一般にヘイトスピーチとは、人種、民族、宗教などの違いに基づき、特定の個人や集団を、差別的意図をもって攻撃、脅迫、貶める言動であると言われています。

ヘイトスピーチが生み出すものがヘイトクライムです。憎悪の感情が、言葉にとどまらず具体的な犯罪にまで至ってしまえば、ヘイトクライムになるのです。

「ヘイトスピーチがヘイトクライムを引き起こす」

という因果関係からすれば、憎悪の感情がこもった「カルト」という言葉を使うことは、慎むべきではないでしょうか。

相手がカルトなら何を言ってもよい、何をやっても許されるという風潮は、犯罪を誘発する可能性があり極めて危険です。

社会の公器を自認するマスコミにおいては、その社会的影響の大きさに鑑みて、差別用語であるこの言葉を使うことを自重すべきだと思います。

この動画で一番いいたい究極のポイントは、まさにこのことです。

結論だけをシンプルに知りたいという方は、ここで見るのをやめていただいても構いません。しかし、それではあまりにも単純すぎる、もう少し詳しく説明してほしいという人のために、残りの時間を使って少し学問的な説明をしていきます。(後半に続く)