吊りしのぶ

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「カルト」と宗教社会学(動画とテキスト)

前半(「カルト」とヘイトスピーチ)からの続き。

今、使われている「カルト」という言葉の最大の問題点は、極めて多義的な言葉であり、明確に定義できないという点です。

多義的というのは、いろいろな意味があるということです。したがって、カルトという言葉は、使う人によって違う意味合いで使われているのです。今はそういう混乱した状態になってしまっています。

では、この「カルト」という言葉は、本来どのような意味で使われていたのでしょうか。

カルトとは元々、何かを崇拝するとか、祭儀、祭祀などの意味がありました。それが特定の団体を指してカルトと呼ぶ、今のような使われ方がされるようになったのは、宗教社会学という学問の中で「カルト」という概念が生まれてからなのです。

ただし、元々は「侮辱する」「見下げる」という意味ではなく、価値中立的な概念としてあったのです。

宗教社会学は、すべての宗教に対して価値中立的な立場を取る、というのが前提になっています。つまり、宗教に対して善悪や優劣の判断をしないのです。

ですから、宗教社会学的概念であれば、特定の宗教を誹謗するようなことはありません。

宗教社会学には宗教をさまざまなタイプに分ける「類型論」というものがあり、今回はその詳細を説明する時間はありませんが、チャーチ、セクト、デノミネーションなどの概念が提示されてきました。

こうした「類型論」の最後に登場したのがカルトという概念でした。その特徴は、ひと言でいえば、宗教の初期段階ということです。

すなわち、まだ明確な会員資格とか祭司職などのシステムが整っておらず、統一された神学や教義もないような集団のことをカルトと呼んだのです。

イメージ的には、一人の霊能者がいて、その人が心霊術をやって、その周りに信者が集まっているような状態のことを指します。

その意味では、2,000年前のイエス・キリストとその使徒たちは、宗教社会学的にはカルトと分類することができる段階であったと言えます。

少なくとも1960年代までは、こうしたカルトの概念には侮辱的な意味はありませんでした。

しかし、1970年代に入って、特定の宗教を「カルト」と呼んで攻撃する「反カルト団体」が出現し、マスコミを通じて「カルト」の危険性を訴えるようになると、この言葉の意味が大きく変化します。

この段階で出現したのが、通俗的でジャーナリスティックなカルト概念です。これは、マスメディアや大衆的な文献に多く見られるカルトの概念を指します。

彼らは自分たちが危険であるとみなす新しい宗教団体を「カルト」と呼び、この言葉は極めて侮辱的に使われました。

しかし、このような「カルト」の使い方は極めて危険であり、不公平であると多くの宗教社会学者が言っています。

すなわち、学問的にカルトにはきちんとした価値中立的な定義があったにもかかわらず、マスコミによってこのようなカルト概念が濫用されることにより、その専門的な意味が覆い隠されてしまったことを嘆いているのです。

こうした批判の代表的なものが、ジェームズ・T・リチャードソン(James T. Richardson)というアメリカの宗教学者によるものです。

彼は、

「このようなマスメディアによるカルトの用法が結局、意味しているのは、『カルトと自分は相容れないものである。嫌悪すべきものである』ということだ。そのような『嫌いだ』という感情を、『カルト』という言葉で表現しているにすぎない。

また、このような『通俗的でジャーナリスティックなカルト概念』は、特定のグループを攻撃するためのラベルになり、社会的武器となってしまう。

それによって、非常に政治的な言葉になり、もはや学問的に『カルト』という言葉が使いづらくなってしまった」

と批判し、嘆いているのです。

このように、メディアが用いる侮辱的で差別的なカルトの用法が、学問的な意味を覆い隠してしまったので、新宗教の研究を専門とする宗教社会学者たちは、1980年代には『カルト』という言葉を使うことを放棄したのです。

しかし、日本では欧米で流行した通俗的でジャーナリスティックなカルト概念が輸入され、新宗教を批判的に呼ぶ言葉として使われるようになってしまいました。

このように混乱し、明確な意味内容を失ってしまった「カルト」という概念は、私たちは断固として否認し、使わせないようにしなければならないのです。(了)