吊りしのぶ

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再論:「嫌いな女優」ワースト30なんて企画で稼いでる文藝春秋に「(同性愛者は)見るのも嫌」発言を批判する資格はない

これは昨日のブログの再論。

腹立たしいのと自分の考えを整理するためにアップした。

bunshun.jp

文春オンラインは、

2月3日夜、記者団に対して、LGBTQなど性的少数者や同性婚のあり方を巡り、差別的な発言をした岸田首相秘書官の荒井勝喜氏。経済産業省出身の荒井氏は、記者団の取材に、LGBTQなど性的少数者を「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいたら嫌だ」などと差別的な発言をした。

などとしれっと書いている。

記事は「差別的な発言をした」と断定的な書き方だ。

どうやら荒井氏の「見るのも嫌」を差別的な発言と決めつけて批判することと、「嫌いな女優」ワースト30を社の目玉企画として発表することは、文藝春秋内では何ら矛盾するものではないようだ。

bunshun.jp

荒井氏の発言はオフレコだが、文春の企画は社内審査を通った公式のものである。どっちが悪質なのか?

文春のは、女優の個人名を挙げて「お前なんか見るのも嫌」と公に宣告する企画ではないか。

しかも、特定の女優への嫌悪感を社会全体で共有して楽しもうというのだから、「われわれは三流週刊誌です。三流出版社です」と自ら告白しているに等しい。全く下らない。

但し、世の中の私的空間にはこの種の「差別的発言」があふれている。そんなものをいちいち問題にしていたらキリがない。

内心から沸き上がってくる感情を言葉にしてはならないという社会は、全体主義社会である。言葉にするときはTPOへの配慮が必要だが(だから「嫌いな女優ワースト30」なんて企画を活字にすべきではない!)、少なくとも仲間内やそれに準じた私的空間でなら問題はないだろう。

私的空間でも一切「差別的発言」をするなというなら、それはあらゆる人間に聖人君子になれというようなものだ。

そんなことはできるはずがない。だから私的空間での発言は、それが「差別的発言」であろうと「侮辱的発言」であろうと大目に見て、問題にしないのが世の習いである。

それをわざわざ公にして、あたかも公的な場で言ったかのように報じ、もっともらしく批判したのが毎日新聞である。馬鹿としか言いようがない。

世界日報もおかしなことを書いている。

www.worldtimes.co.jp

世界日報の記者は、

筆者の周囲には「オレも嫌だ」「オフレコだろう」と、多くはないが、彼を擁護する声もある。しかし、それには同意できない。

荒井氏は政権の中枢で国民全体の幸せを考えるべき立場の公人。たとえ「嫌だ」という感情が内心にあってもその言葉を口にしてはいけない。

オフレコでも差別発言を行えば記者に書かれ、LGBT運動を煽(あお)る結果を招くことに思いが及ばなかったのは首相秘書官としての資質に欠ける。更迭は当然のことだ。

と書くが、これぞまさに「政権に携わる者は聖人君子でなければいけない」と言っているのと同じである。

オフレコ発言は、私的空間の発言である。過去には、政治家だったと思うが、オフレコを暴露されても一切ノーコメントで突っぱねた人もいたと記憶する。

本来、それが正しい態度である。責められるべきは、オフレコ破りをした毎日新聞なのである。

この世界日報の記事のように、「オフレコでも問題発言があれば、報道されても仕方がない」などと言ってルール違反を許し、ルール破りをした記者を甘やかすから、「ルールは守るべきもの」という規範意識が崩れてしまうのだ。

まるでオフレコ破りを奨励しているようなものではないか。

政治家や官僚の間にオフレコも公的な場、いつ報道されるか分からない、という認識が広がれば、記者に心を許して本音を明かす人間はいなくなるだろう。

毎日新聞は、報道機関として自殺行為になるようなことをやったのだ。