- 1,「岸信介首相が語るムン牧師」という動画
- 2,岸信介元首相はレーガン大統領宛に手紙を送り、文鮮明氏の釈放を嘆願した
- 3,「非武装中立論」「無抵抗白旗主義」が幅を利かせていた時代
- 4,KCIAによる金大中拉致事件。海に放り込まれる直前、イエス・キリストが現れ、助かった金大中氏
1,「岸信介首相が語るムン牧師」という動画
先日、日本人ウルグアイ宣教師の統一教会2世で、8歳から20年間ウルグアイで暮らした女性の動画を偶然見つけ、リンクしたところ、場末の夏枯れブログには分に過ぎた反響をいただいた。感想を下さったり、当該動画にメッセージまで書き込んで下さった方がいて感激した。
自分とは縁もゆかりもないが、動画の再生回数が増えたのは素朴にうれしい。(当初860回ぐらいだった再生回数が、なんと1650回を超えている!)
歌っているのは「紫のムグンファ」。ムグンファは日本で言う木槿(むくげ)のこと。韓国の国花だが、日本でもあちこちで密集して咲いているのを見かける。こんな感じ。
(フリー写真:photoAC)
「紫のムグンファ」はメロディアスで心に残る曲だ。それに歌がうまいなあ、この女性。
いいなあと思った人は、どんどん拡散してあげてください。
さて、この動画を公開している「storyT」というYouTubeサイトを見ていたら、またしても興味深い動画を見つけた。
「岸信介首相が語るムン牧師」というタイトルが付いていて、
「旧統一教会でムン・ソンミョン総裁名義の土地があるか調査をしたことがあります」
という、何だかよく分からないナレーションから始まる。
そこを聞き流して先へ進むと、タイトルに関係した話が出てくる。さらに1960年代末から70年代にかけての反共・勝共活動の紹介、冷戦時代の活動とその後へと話が進む。
ザックリとしたまとめながら、「日韓米華の一体化による共産化阻止」に統一教会・勝共連合が貢献したことを訴えているようだ。
短いまとめとしてはよくできていると思った。制作したのは韓国人で、日本人が訳を作っている。ナレーションはAI音声。
2,岸信介元首相はレーガン大統領宛に手紙を送り、文鮮明氏の釈放を嘆願した
初めの方に、統一教会の文鮮明教祖が1980年代前半のアメリカで、レーガン政権下に脱税の罪に問われ、収監された話が出てくる。
この時、岸信介元首相がレーガン大統領宛に手紙を送り、釈放を嘆願したことは既に報道されているが、自分は記事を読んだだけで、手紙の全文は把握していない。
この動画には、その手紙の一部が紹介されていた。
紹介された文面のどこまでが正しい内容で、正確な翻訳なのか、自分には判断できないし、今はそこまで調べる時間がない。
ただ、岸氏が嘆願の手紙を送ったのは事実である。岸元首相は火中の栗を拾った稀有の政治家だった。
これも動画の中にあるが、岸元首相は世間の評判とか世間体とかそんなことを気にする人ではなく、自分の心で感じ取った事実を何よりも大切にする人だったという。
そういう人だからこそ、批判を恐れず60年安保改定をやり遂げ、終生9条改憲を訴え続けたのだろう。
岸元首相がレーガン大統領宛に親書を送ったことは、週刊新潮22年7月28日号が報じた。ネット記事で邦訳引用されているのは一部のみだ。(現物は未確認、収納スペースのどこかにねむっているはず)
機密解除されたのだから、英語原文を全部公開すればいいのに。
まあ、所詮二流週刊誌だから“つまみ食い”しかしないのは仕方がない。
3,「非武装中立論」「無抵抗白旗主義」が幅を利かせていた時代
以下、思いつくままに書いてみよう。
新潮のネット記事はこの親書を批判的に論じているが、案の定、歴史的背景を理解しない与太記事である。その背景は、この動画を見ればある程度分かる。
岸元首相にとって文鮮明氏は、東西冷戦を戦う反共、勝共の同志だったから、牢屋に入った文氏のために一肌脱いだとて何も不思議なことはない。
当時はまだ「霊感商法」などなく、岸元首相が嘆願書を書くハードルは低かったと思う。
むしろ東西冷戦の真っ只中で、社会党が今の立憲民主党よりもはるかに強い力と勢力を持ち、「非武装中立論」や「無抵抗白旗主義」など非現実的な妄想をばらまいて、かなりの国民の支持を得ていた時代である。
しかし、当時すでに、ソ連はアフガニスタンに侵攻し、国家元首を殺害して傀儡政権を作り、実に10万以上の軍隊を送り込んで全土を占領していた。(1979年12月~1987年)
「革命の輸出」に力を入れたソ連はまた、世界中で革命熱を煽り、中米やアフリカで次々に社会主義政権ないしソ連寄り政権を誕生させていた。(1979年、ニカラグアで社会主義革命、イランでホメイニ師の反米イスラム革命)
極めつけは、西ヨーロッパを狙った中距離核ミサイルSS20の実戦配備だろう(1977年~)。雰囲気としては、ロシアのウクライナ侵攻前夜のような状況が生まれたと思えばよい。
軍拡、核の威嚇、革命の輸出で攻勢をかける「ならず者国家・ソ連」は日本の隣国である。いつ日本に牙をむいて襲いかかってくるかわからない。
なのに、国内では社会党委員長・石橋政嗣が1980年に出した『非武装中立論』がベストセラーとなり、2006年に同書を復刊した明石書店によると、原著は30万部も売れたというから驚きだ。マンガ版まで出た。
日本人の多くが“お花畑”の中で夢をみていたとしか思えない。
反核運動が燎原の火の如く広がり、国内のいろんな自治体が「平和都市宣言」やら「非核平和都市宣言」やら全く意味のない、いや有害ですらある「宣言」を出したのも、東西冷戦のただ中でのことだった。*1
マスコミはこぞってレーガン大統領を危険な軍拡主義者と非難し、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞を筆頭に多くの新聞が「反核キャンペーン」を展開した。核戦力を増強していたのはソ連の方なのに。
だから、反核運動は、ソ連の核には何も言わず、ただアメリカの核を非難するという、完全な反米運動と化していた。
自民党や保守派は、この状況を何とかしたいと考えていたはずだ。岸元首相が、文鮮明氏を赦免してほしいと嘆願書を書いた背景には、国内外の左翼全盛とも言える状況があったのだ。
岸元首相は、韓国、日本、アメリカで勝共運動を展開し、その活動をヨーロッパや南米にも広げていた文鮮明氏に、期待するものがあったのだろう。
4,KCIAによる金大中拉致事件。海に放り込まれる直前、イエス・キリストが現れ、助かった金大中氏
1960年代、70年代、80年代前半の日本のマスコミにおける韓国観は、動画のナレーションにもあるように、否定的なものだった。
李承晩(イ・スンマン)初代大統領は、勝手に「李承晩ライン」を引いて竹島を奪い取った侵略者(しかも朝鮮戦争の最中に!)であり、筋金入りの反日主義者だったが、一方で反共精神も持ち合わせていた。
韓国で注目を集め、日本でもベストセラーになった『反日種族主義』(文藝春秋)の編著者で、保守派の李栄薫(イ・ヨンフン)元ソウル大教授は、李承晩の反共精神を高く評価している。
しかし、日本のマスコミがそうした視点から李承晩を評価していたという話は聞いたことがない。
1961年のクーデターで権力を握った朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、泣く子も黙る軍事独裁政権を築いた。朴正煕大統領はKCIA(韓国中央情報部)を使って民主派を弾圧していると報じられ、日本のマスコミには毛嫌いされていた。
逆に、民主化運動の先頭に立ち、日本の知識人を味方に付けた金大中(キム・デジュン)氏が抜群の人気を誇っていた頃である。知性的で日本語がペラペラだったことも関係があるかもしれない。
1973年、来日していた金大中氏(のちの韓国大統領)が何者かに拉致され、船で韓国へ連れ去られた事件は、外交問題に発展した。詳しいことは省くが、この金大中事件、犯人はKCIAだといわれている。
自分は金大中氏の自伝を読んだことがあるのだが、非常に印象的な箇所がある。
船中でふろしきのようなものをかぶせられた金大中氏は、両手両足を縛られ、両方の腕にそれぞれ30~40キログラムのおもりをつけられた。
そのまま海中に投げ込まれ、抹殺されるのはまず間違いないと思えるような瞬間がやってきた。
彼はそれでも、何としても生きたいと思ったそうだ。その時、金大中氏はイエス・キリストの姿を見たのである。
本棚から今も保管してある本を引っ張り出してみた。そこにはこう書いてある。
「すると私の目の前に突如、イエス様が姿を現された。私は夢中で裾にすがって『助けてください。まだ私にはやりのこしたことがあります。韓国民のためにやらなければならないことがあります。私に寄せられた国民の期待にこたえられなくなります。救ってください』と言いました。
私はふだんお祈りはしますが『助けてください』と言ったのは、このときがはじめてでした。
その私の言葉が終わるとどうじに、目を閉じていたのに赤い光がピカッとさしてきました」(金大中著『わたしの自叙伝』NHK出版、p.389)
目を閉じていたのだから、イエスの幻影に過ぎないという気がしないでもないが、彼にとってイエス・キリストは実在したのだろう。
金大中氏は海の藻屑と消えることなく、韓国に着き、ソウルの自宅前で解放された。
これはKCIAが日本の主権を侵害して、白昼堂々、日本に滞在中の韓国の野党指導者を拉致し、母国へ連れ去った事件である。
以来、KCIAという名前は「悪」の代名詞として日本国民の脳裏に刻まれることになる。ところが、である。
日本で統一教会、勝共連合の名が知られるようになった頃、「統一教会や勝共連合はKCIAが作った」とか「統一教会や勝共連合はKCIAの手先だ」という謀略情報が流された。いまだにこのデマを信じている人は多い。(時間が取れたら続編を書くかもしれない)
【気晴らしsongs】
韓国でだいぶ前に大ヒットした「J」の日本語バージョン。作詞・曲は李世建、訳詞は佐藤純子、歌はミン・ヘイギョン(閔海景)
*1:「非核平和都市宣言」の成立数がピークに達したのは1985年で、その年は220自治体に上った。冷戦終結後、日本で有事法制の重要な法律である「武力攻撃事態法」ができた2003年の後も急に増えている。2006年がピークで152自治体。