吊りしのぶ

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竹島の島根県編入の正当性を示す海図発見の朗報

竹島が日本の領土であることに疑いの余地はない。

韓国や日韓関係史に関する本を読むと、

「韓民族は他国を侵略したことがない。韓民族は平和愛好民族である」

という趣旨の記述をたまに見かけるが、平和愛好民族かどうかは別として、「韓民族は他国を侵略したことがない」はウソッパチと断言できる。

竹島は韓国が侵略して日本から奪い取った領土であるからだ。

韓国の李承晩政権は、よりによって朝鮮戦争のさなかに、また日本がサンフランシスコ平和条約を結んで独立する直前の1952年1月、突如として竹島をその内側に含む「李承晩ライン」を設定した。

そして、竹島周辺で操業する日本漁船を拿捕し始めたのである。

当時、日本はまだGHQの占領下にあり、在日米軍は朝鮮半島に出動していて丸裸の状態だった。

自衛隊は発足しておらず、陸上自衛隊の原形となる警察予備隊(その後保安隊を経て1954年7月に陸上自衛隊が発足)しかなかった。むろん海上自衛隊も存在していない。前身の海上警備隊が発足したのは1952年4月である。

警察予備隊にしろ海上警備隊にしろ装備は貧弱で、とても国土防衛に資するようなものではなかった。国土が丸裸ではお話にならないから、とりあえず形だけ作ったという程度のものだ。

しかも、日本国憲法第9条は「戦争の放棄」と「戦力不保持」を謳っており、わが国に自衛権があるのかどうかすらはっきりしていない時代である。

事実、吉田茂首相はGHQ占領下の1946年6月、国会で「日本は自衛権を持たない」と受け取れる答弁をしていた。

わが国が自衛権を持つと公に明らかにしたのは、憲法改正を掲げて発足した鳩山一郎内閣においてで、1954年12月のことである。

というわけで、日本は韓国による竹島強奪になすすべがなかった。

1953年7月、竹島に近づいた海上保安庁の巡視船は韓国側から発砲を受けている。

翌1954年8月に起きた発砲事件は衝撃的で、韓国側は海上保安庁の巡視船めがけて約400発の銃弾を浴びせた。死者が出なかったのが不思議なくらいの大事件だった。

外務省は当時、この事件を含む韓国の竹島占拠について、侵略だとの見解を表明している。

しかし、「自衛権がある」と公式発表する前のことであり、自衛隊は同年7月に発足したものの相変わらず装備は貧弱だったから、鳩山内閣は武力を発動して竹島を奪還するという決断ができなかった。

国土防衛に資する軍事力を持たない国の悲劇、かつまた「戦力不保持」「(自衛戦争も許されないと解釈された)戦争放棄」のような非現実的な憲法9条を持たされた国の悲劇と言っていい。

外務省が「侵略だ」と表明したことは、当然のことながら、竹島はわが国の領土との認識を持っていたことを意味する。

竹島は江戸時代から日本の領土と認識されていたが、徳川綱吉の治世に日朝間に領土紛争が発生し、江戸幕府は鬱陵島を放棄して(日本側が朝鮮側の領有権主張を正当と認め、日朝和親のため争わなかった!)、竹島のみ自国領と定めた。

ところが、鬱陵島を放棄したことにより、鬱陵島への中継地として活用されていた竹島はほとんど使われなくなってしまった。

その後、日朝間に領土紛争のようなものはなかったから、竹島は一時、忘れられてしまう。

日本人の間で竹島が再び光を浴びたのは、明治新政府になってからのこと。竹島周辺でアシカ猟が活発に行われるようになる。

そこで、明治政府は他国と無用の争いが起きないように、竹島が「無主の地」であることを確認した上、日本の領土だと内外に明らかにしようとした。それが1905年1月の竹島の島根県編入である。

ちなみに、江戸時代の日本は、鬱陵島を「磯竹島もしくは竹島」と呼び、竹島を「松島」と呼んでいた。*1

この島根県編入を韓国併合に至るプロセスの一環と見て非難し、「日本による侵略だ」と主張してきたのが韓国である。

奪われたものは奪い返す―。

親米の自由主義者ではあったが、強固な反日主義者でもあった李承晩大統領は、日本が独立する間際の空白期間を絶好のチャンスと捉え、武力行使までして竹島を強奪したわけだ。

以上、一応、自分なりに竹島に関する知識を整理してみた。

こんなことを書いたのは、最近、竹島の領有権に関する新しいニュースが出たからだ。FNNプライムオンライン(TSKさんいん中央テレビ)が期間限定で動画を公開している。

「竹島」と表記した最古の公的地図。TSKさんいん中央テレビ(FNNプライムオンライン)23年12月6日視聴より

www.fnn.jp

島根県の竹島が1905年、日本の領土に編入されたあと、初めて「竹島」と表記した公的地図が確認されました。

「竹島は秘密のうちに編入され国民に広く認知されていない」とする韓国側の主張を覆す資料になるということです。

日本の領土編入後に初めて「竹島」と表記されたのは、旧海軍の水路部が1905年4月22日に刊行した海図「日本近海水先(みずさき)図」です。

東京のシンクタンク「日本国際問題研究所」の委託で調査を行った、島根大学法文学部の舩杉力修(ふなすぎ・りきのぶ)教授が、10月に確認しました。

島根県編入前、海図には西洋での呼称「リアンコールト岩」と表記されていましたが、この海図に初めて「竹島」と表記されました。

海図は、海軍の各艦隊に送られ、民間にも販売されていたということで、「竹島」の存在が、領土編入の閣議決定から約3か月後には、国内に広く浸透していたことを示し、「竹島の領土編入は秘密のうちに行われ、国民に広く認知されることはなかった」とする、韓国側の主張を覆す資料になるということです。

島根大学・舩杉力修教授:

「前提の秘密裏もまったく問題ないし、それからそもそも日本海海戦の前に竹島が出ていたということなので、編入に関わる韓国側の主張はこの地図で論破出来た」

この海図は、複製版が松江市の竹島資料室と隠岐の島町の久見竹島歴史館で展示されています。

産経ニュースが「島根大教授らが1905年4月刊行の海図に『竹島』と明記されていることを初めて確認」と報じたのが12月1日。

www.sankei.com

ただ、産経ニュースが掲載したのは海図全体で、肝心の竹島を読み取ることは難しい。一方、紙の産経新聞は12月2日付けで報じ、そこでは竹島周辺をズームアップした図を載せた。

産経新聞23年12月2日付けより

毎日も12月1日に報じている。

mainichi.jp

NHKも12月1日に報じたが、島根県のニュースという扱い。全国ニュースにしないのだから驚く。領土問題への信じられない無関心さ。

www3.nhk.or.jp

12月3日、読売新聞オンラインが後追いで報じた。紙版が報じたかどうかは確認していない。

www.yomiuri.co.jp

自分が残念に思うのは、せっかく発見した資料のレプリカが、松江市・竹島資料室と隠岐の島町・久見竹島歴史館でしか見られないことだ。

日本が本気で竹島を取り戻そうと思うならば、東京と大阪に公的な竹島資料館を早急に作るべきだ。

そこに日本の主張の正当性を示す資料を集めて国の内外にアピールするのである。

「日本を取り戻す」をスローガンに再登板した今は亡き安倍首相は、「竹島の日」を格上げして「北方領土の日」並みの政府主催にすることも検討していたが、極めて残念なことに、この件は進展がなかった。

日韓関係がこじれている時にやってしまうべきだったと思う(日韓関係がどん底の時に韓国を怒らせることをやっても、どん底より下へ落ちることはないから)。

なお、竹島問題を考える文献で特に参考になったのは、田村清三郎著『島根県竹島の新研究』と下條正男著『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書)の2冊。

【気晴らしsongs】


www.youtube.com

兄弟姉妹4人組のルア・ワーシップによるクリスマスソング「みつかいのたたえ歌う」。

*1:この名称のややこしさが、竹島問題を分かりにくくさせている一因である。