吊りしのぶ

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家族否定の「選択的夫婦別姓」導入に明確に反対します

党首討論会で立民・枝野幸男氏が、選択的夫婦別姓制について「こんなの当たり前のことで、とっくに実現してなきゃおかしい」と言ったのには本当に驚いた。

何というのか、多様性尊重全体主義とでもいうのか、多様性の尊重を掲げながら、多様な意見を認めず、頭ごなしに封殺して有無を言わせないという傲岸不遜を絵に描いたような物の言い方だった。

自民党には賛成派と反対派がいるが、これは世論も同様である。自民党はそのことをわかっているので、拙速に結論を出さず、現状維持を図っている。

つまり、自民党は党内ならびに世論の多様な意見を尊重しているわけだ。

現状を維持する限り、「姓」をめぐって社会的な混乱が起きることはなく、国民の大多数には支障が生じないと見ている。また、不都合が生じる部分は、通称使用の拡大で対処しようとしている。

しかし、立憲民主党は、夫婦別姓にしなければ困るという一部の意見だけを大きく取り上げて、現状のままで何も困ることがない大多数の国民を巻き込んだ革命的な制度変革をやろうとしている。

この場合、「賛成が多いから」は理由にならない(というよりも、5年ごとに行われる内閣府の家族に関する調査で、別姓賛成派が同姓堅持派を上回ったことは過去ただの一度もない。この点、マスコミや有識者を含む多くの人が、世論調査の数字の読み方を間違えている)。

賛成している人の中で実際に別姓にできなくて不都合を感じている人は少数にすぎない。

「自分は同姓がいいけど、ほかの人は好きにすればいいんじゃない」という理由で賛成している人は、その人自身が何か困ったり、不都合を感じたりしているわけではないからだ。

「賛成が多い」といえば、1年前、菅義偉内閣誕生のときも、賛成した人はとても多かった。当初支持率は確か7割前後だった。それほど多くの人が支持した菅内閣が、わずか1年で瓦解すると誰が想像しただろうか。

世論の「賛成」など、所詮は移ろいやすいもの。当初、菅内閣誕生に賛成しておきながら後で「反対」に転じた人は、菅さんを一方的に非難する前に、人を見る目がなかった自分を恥じるべきだろう。

それでも、我々は人選びに失敗したら、次の選挙で別の人を選べばいい。しかし、制度変更はそうはいかない。

特に、夫婦同姓という明治から続き、国民の間に完全に定着している制度の場合、一度変えたら後戻りはできない。

しかもこの制度は戸籍制度と不可分の関係にあるから、これも大変革、大変質を余儀なくされる。この点は、推進派が「家族戸籍から個人戸籍へ変えよう」と語っていることからも明らかだろう。

だが、おそらく、寛容な「自分は同姓がいいけど、ほかの人は好きにすればいいんじゃない」派の多くは、そんなことが起きるとは想像もしていないはずだ。

つまり、選択的夫婦別姓制を導入することで何が起きるのかを、国民の多くはまだ知らないし、理解していない。

推進派の狙い目はまさにそこにある。多くの人がよくわかっていないうちに、「多様性の尊重」という時勢と、「困っている人がいるんだから助けなければ」という人間の善意を利用しようという戦略だ。

寛容な人たちの隙をついて、サイレント・マジョリティーが目覚めないうちに、「声を上げた者勝ち」で時勢に乗って一気に事を運ぼうとしている。

別姓制を導入するか否かは、姓というプライベートでありながら、明治以来の日本の伝統や文化、慣習に関わる非常にセンシティブな問題である。

現代に生きている我々だけを拘束するものではなく、将来世代も拘束し、さらには日本の家族のあり方も左右する。選択的だからいい、という単純なものではない。

推進派はよく「夫婦同姓を強要している国は日本しかない」と言うが、これはミスリードだ。「強要」がまずいというなら、中国だって韓国だって強要していることに変わりはない。

こちらは別姓を強要しているわけだ。かの国の人たちは、同姓になりたくてもなれない。

しかし、日本の同姓制度は、夫と妻のどちらかの姓を選べる点で自由度があり柔軟だ。中国にも韓国にもそんな自由はない。

香港の行政長官は中国独裁政権に忠実なことで知られる林鄭月蛾長官だが、彼女の夫は林兆波という人である。結婚すれば「林兆波―鄭月蛾」という夫婦になるところ、彼女は夫婦同姓でありたいという気持ちがあったのだろう。

だが、中国では「林」の同姓夫婦になることはできない。そこで「林鄭」という結合性を名乗ったものと思われる。彼女は名前を通じて「自分は林家の妻、鄭月蛾」とアピールしているようだ。

このように中国や台湾では、一応、結合性を作ることができる。同姓でありたい人が苦肉の策として結合性にしているのである。

これが可能となるのは、中国、台湾は、基本的に姓が1文字という文化的事情があるからだ。1文字の姓を結合して2文字にしても、そんなに不自然ではないということで認められているやり方だ。

結合性は欧米でも普及している。夫婦同姓にしつつ、妻が自分の姓の一部に実家の姓を入れるというのはよくある。

これもJacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassisのように、ミドルネームを何個でも増やせるアルファベット表記の柔軟さからくるもので、欧米の文化的特性がそれを可能にしている。

こういうことを日本でやろうとしても難しい。佐藤太郎さんと福島みずほさんが結婚して「佐藤福島太郎」とか「福島佐藤みずほ」という名前にしたところで、大半の国民は「なんじゃそりゃ?」としか思わないだろう。

2文字、3文字の姓がたくさんある日本にはなじまない。

結合性が難しいとなると、同姓か別姓しかないが、別姓にするとファミリーネームが消失することになる。

「自分は同姓がいいけど、ほかの人は好きにすればいいんじゃない」と考える人は、自分の子どもや孫が「別姓にしたい」と言い出したら、どうするつもりだろう。

佐藤姓の夫婦が「我が家の長男」と思って育てた子が成人して結婚するとき、別姓にしたい妻(例えば福島みずほさん)と結婚したとする。その瞬間、佐藤家はそこで終わりになりかねない。

長男夫婦はもはや「佐藤家」ではないのである。

長男夫婦は「佐藤―福島」夫婦であり、孫が生まれると、孫は今度は全員福島姓を選ぶかもしれない。そうなったら、佐藤家はそこで完全に終わりを告げる。

「自分は同姓がいいけど、ほかの人は好きにすればいいんじゃない」派は、そういうことが起こる可能性を想定しているだろうか。

選択的夫婦別姓の導入は、決して「そうしたい人だけ」の問題ではない。制度導入後、ほどなくして夫婦同姓に馴染んでいる人たちを困惑させるような出来事が次から次へと起こってくるだろう。

推進派は、この制度導入によって日本の文化、伝統、慣習を根底から変えたいと思っているのであり、反対派は、そうした推進派の底意が分かっているから、既に定着している日本の文化、伝統、慣習を守るべきとの立場から反対しているわけだ。

つまるところ、これはリベラルVS保守の文化戦争なのである。

リベラル派は「個人の多様性尊重」を掲げるが、保守派は「固有の文化の尊重」「家族の尊重」を掲げる。

文化は多様であり、各国、各民族に固有のものがあっていい。各国、各民族に固有のものがあるからこそ文化なのだと言える。

そもそも姓のあり方自体、中国・韓国と欧米では全く違うように、グローバルスタンダードのようなものがあるわけではない。

「夫婦同姓を強制しているのは日本だけ」と言ってこれを非難するのは、「死刑制度を保持しているのは日本、中国などごく僅か。早く廃止すべき」と主張する死刑廃止論者(朝日新聞や日弁連)の論理と何も変わるところがない。

夫婦同姓制は、家族を尊重し家族を保護する日本の文化的特性である。これを投げ捨てるのは余りにも愚かである。

家族は社会の自然かつ基礎的な単位として保護されるべき」と謳った『世界人権宣言』や『市民的及び政治的権利に関する国際規約』のメッセージを忘れるべきではない。

最高裁は2015年と今年の二度にわたって「合憲」と判示した。賛否は拮抗していない。どちらも最高裁判事の約3分の2が合憲を支持した。

別姓を認めないからといって、それが女性差別に当たるとか、女性蔑視に当たるとか、男尊女卑だとか、その類いの批判は一切的外れの、ただの言いがかりである。

最高裁は立法府で議論すべきとは言ったものの、別に選択的夫婦別姓を導入せよとも、それが望ましいとも言っていない。

この点、今年の最高裁で合憲判断が下された直後の朝日新聞の報道は異様であった。なんと「合憲」に同意しなかった判事たちの見解を詳細に取り上げ、あかたかも彼らの見解こそが正義であるかのように報じたのだった。

これについては、当時の週刊新潮が痛烈な批判を浴びせている。

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朝日新聞の選択的夫婦別姓報道を批判した週刊新潮2021/07/08号上段

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朝日新聞の選択的夫婦別姓報道を批判した週刊新潮2021/07/08号下段